新・地震学セミナーからの学び
41 三河地震の傷跡、深溝断層
三河地震は日本が敗戦を迎える直前の昭和20年(1945年)1月13日午前3時38分ごろ(名古屋では38分32.8秒)発生しました。震源地は 渥美湾北岸(北緯34度7、東経137度2)で、震源の深さは記録上では0kmという極めて浅い場所での地震でした。規模は マグニチュード7.1でしたが、震源が浅かったために甚大な被害が発生しました。当時は報道管制が敷かれていて、詳細が不明のままでしたが、戦後の調査により、前兆現象に関しても、セミナー[724]以降に紹介したように、多くの観測事例が報告されており、地震現象の学びのために貴重な資料を提供してくれています。

ここでは、深溝(ふこうず)断層と名付けられた形原地区の断層の中でも地盤の変動が一番激しかったと言われる金平地区の隆起現象について、地震発生後59年経た2004年2月11日撮影の現地写真(金平簡易郵便局東側道路)などを紹介します。

2004,2,11撮影
金平簡易郵便局東側
右図の中でA-Bで示されているライン上の地盤は地震前にはほぼ一直線に並んだ平坦な地形でありました。地震後は点線のように隆起をしましたが、現在は整地されて石垣が組まれています。約2メートルの石垣の高さは隆起した高さを意味するものです。

写真の前方(北方)には、ここには写っていませんが道路が水平方向にずれて屈曲してしまった場所があります。位置関係は下段の地図を参照してください。

写真は宗徳寺裏山に今も残る地割れの跡、右図は案内板にある説明図です。(2004,2,11撮影)
深溝断層と名付けられ地盤の変動は、形原地区ではほぼ南北に伸びていますが、一番隆起が烈しかった金平郵便局付近でも、明瞭なずれを伴う断層ではなく、小山のような形で、2メートルもの隆起となって現れたようです。その北に位置する道路の屈曲場所では、隆起は無くて、水平のずれとなっています。又さらに北に位置する宗徳寺付近では、地割れという現象になっています。さらに北方では今度は東西方向の水平ずれ、および地割れとなっています。

セミナーに紹介した体験報告などをみてもわかるように、この地震は一回の地震による地盤の変動ではなくて、何回もの地震で複雑に地盤変動が起こったと想定されます。

ここには写ってはいませんが、深溝断層として良く紹介される北方にある東西方向に出来た断層の形状を観察しても感じるのですが、断層が動くことによって地震エネルギーが放出されたというよりは、爆発によるエネルギーによって、饅頭の皮のような地皮が破れたり、皮が膨らんだりしたと言う表現のほうがぴったりとするような感じがします。地割れは最初は数センチだったものが、余震のたびにだんだん広がっていったという観察報告があります。揺れるたびに傷口が大きく開いていったのであって、開いてしまった断層が地震エネルギーを何度も放出するというのは、合理的な解釈とは思われません。地震は爆発現象であり、爆発の揺れによって傷口がだんだんと広がったり、段差が出来たりする、ということだと思います。