沈島伝説

「そのむかし、豊後湾(別府湾)には瓜生島(別名迹部(あとべ)島・沖の浜島)、大久光島、小久光島、東住吉島、松島などの島々が浮かんでいました。

なかでも瓜生島は、東西三十六丁南北二十一丁あまりもあり、古代から栄えた古い島でした。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)や鵜葺草不合葺尊(うがやふきあえずのみこと)は、東上の際この瓜生島から舟出したと伝えられています。

室町時代になりますと、島は豊後一の貿易港として、各国からの入船でにぎわったと言われます。当時は十二ヵ村戸数千戸を数え、島長の館を中心に三条の大通りが走り、南を本町、中央部を東町、北を新町と称し、大分から瓜生島・久光島を通って別府へ抜ける交通路がひらけていました。

島長幸松(さきまつ)勝忠は、たいへん信仰心の厚い人で、島には威徳寺、阿含寺、住吉神社、菅神杜、蛭子社などの寺社が立ち並んでいました。更に文禄四年(一五九五)には阿弥陀寺を建立することになり、南部の僧都行恵が、島へ勧進に参りました。

島には古老たちによって古くからの言い伝えが残っていました。それは、『瓜生島に住む人々は仲良くしなくてはならぬ。一人でも仲たがいをする者があれば、島じゅうの神仏の怒りに触れ、島は海中に沈んでしまう。そのあらわれとして、蛭子杜の神将の顔が真赤になる』というのです。

文禄五年六月下旬のことです。島の南西端の申引村(さからすむら)に住む加藤良斎という医者が、

『そんな言い伝えなど気にすることはない。天変地異など実際に起こる筈がない。おれが試してやろう。』

と、蛭子社に奉祀してある十二神将の顔を丹粉(にふん)で真赤に塗りつぶしてしまいました。

島の人々はそれを見て、

「たいヘんなことをしてしまったものだ。何か異変が起こらねばよいが・・・」

と、気をもんでおりますと果たしてその翌月(改元慶長元年六月)の始め、地震があり、続いて十六・十七日にも、日に数回地震がありました。

「まさしく神の怒りの前兆だ。」

と、気の早い島民数十名は、荏隈(えのくま 大分市永興)に逃れはじめました。

一と月たった閨七月にも、四日、五日とたてつづけに地震が起こり、さらに十一・十二日と続いて未刻(午後二時頃)になると、島は激しく揺れはじめ、高野山・木棉山(由布岳)・御宝山(霊山)などの山々が一度に火を噴き、大きな石が空から降って来ました。

人々は、あわてふためき、島から逃れようと、荷物をまとめておりますと、申刻(午後四時頃)になって一時静かになりました。

その時、白馬にまたがった一人の老人が、島じゅうに、

『瓜生島は、沈んでしまうぞ、一刻も速く避難せよ!」

と大声で宣れまわりました。島の人々は、みなわれさきにと、舟に乗ったり、泳いだりして、府内(大分市)や、日出の町めざして逃げてゆきました。この老人は、神の化身だったと言われます。老人の予告どおり、一刻ほど後に大地震がおこり、ものすごい高潮が島を襲いました。

島長勝忠も、息子の信重を伴って小舟に乗り、生命からがら逃げのびました。しかし、海上は波が荒く、小舟は忽ち波にさらわれ、二人は海中に投げ出されました。

勝忠は、信重の手を固く握ったまま波にもまれていました。大量の水をのんだため、意識がもうろうとしています。その時、夢ともなくうつつともなく、大空から声がして、一本の竹が差し出されました。勝忠は、夢中でその竹にしがみつきましたが、それっきり波をかぶって気を失ってしまい、気がついた時には、二人とも加似倉山の麓にうちあげられていました。

一夜明けて、地変はおさまりましたが、海上には島影一つなくなっていました。瞬時のうちに沈下してしまったのです。

生き残ったものはわずかに七人。行方不明者数知れず、溺死者は七百余人といわれます。」